真のサービス精神
行き詰った喫茶店経営
これも数年前の話ですが、ある再開発地区で年配のご婦人から相談を受けました。「うちの主人は、駅の近くで喫茶店をやっているんです。やりはじめてもう25年になるんですが、最近はお客が減って心配なんです」。「このまま続けていても、ちっとも売上が伸びないし、といっていまさら改装するにもお金が要ります。ましてや歳も歳ですから商売替えもできません。どうしたらいいでしょう」と。ご主人はプライドの高い人なので、こっそり相談にみえたのです。
私は「一度、行ってみましょう。」と言って、次の日の午前中その喫茶店に出かけて行きました。入ってみると、客は私一人で、ご主人と思われる人がコーヒーを入れてくれました。コーヒーはおいしかったのですがお店の雰囲気が気になりました。というのも、その喫茶店はいわゆる画廊喫茶で、周囲の壁にいろいろな絵画が飾ってあって値札もついていました。さらに奥の方にはコピー機が置いてあり、またその傍にはファックスも置いてあって、何か喫茶店のような事務所のような、あるいは普通の家庭の応接室のような、混沌とした空間だったので、少し違和感を感じたのです。それからしばらくして私はトイレに入りました。トイレは一応掃除はしてあったのですが、トイレの周りにいろいろ置いてあり雑然としていたので、あまり気持ちのいい感じがしませんでした。
トイレ掃除
そこで私は、帰ってからそのご婦人に感じた印象を伝えました。そして「あなたにすぐできることはトイレ掃除だと思います。きちんと片付けて綺麗に磨きこんでみてください」と言いました。聞いてみますと、彼女は大体週に2回ぐらいご主人に代わってお店番をしてきたのですが、たまたま次の日が彼女の当番に当たっていました。そこで次の日、彼女はいつもより1時間早くお店に行ってオープンする前の1時間、トイレ掃除を始めました。小窓のガラス戸はもちろん、便器も、水を貯めるタンクも床も、それこそ無心に磨きました。汗びっしょりかいて一生懸命に磨きこみました。
記録的な売り上げ
そして、いつもの時間になったのでお店を開けたのです。するとどうでしょう、次から次へとお客が入ってくるではありませんか。いつもなら午前中に数人というところなのですが、その日はなんと午前中に30人も来たのです。おかげでコーヒーがなくなってしまいました。彼女はコーヒーの入れ方を知りません。いつもご主人が朝一番でコーヒーを入れ、「あとは頼んだよ」と言って、彼女に任せていくのでした。この日もそうして彼女がトイレ掃除をしている間にご主人がコーヒーを入れて出かけて行ったのです。コーヒーの入れ方を知らない彼女は困ってしまいました。仕方なく、入り口のドアを半開きにし、室内の照明を落として、出きるだけお客が入ってこないようにしました。しかし、それでも入ってくる人はいます。そういう人には、「コーヒーがないのです。紅茶でいいですか」と言って対応しました。
1日が終わってみると、記録的な売上でした。こんな売上は何年振りでしょう。数年前の、盛り上がった秋祭りのとき以来かもしれません。家に帰ってご主人に報告しても「うそだろう」と、信じられないという表情です。次の日はご主人の当番でしたが、その日もやはりかなりの人がやって来ました。2日続いた後、その次の日はまた彼女の当番だったので、また早く家を出てお店のオープン前1時間、今度もトイレをピカピカに磨きこみました。そして、お店を開けたのです。
心の波動の影響
ところが、その日の夕方また彼女が私のところにやって来ました。「じつは、今日も磨きこんだんですが、今日はまたぴたっとお客が来なくなってしまいました。またもとに戻ってしまったのです。どうしたのでしょう」と。私にはその理由がすぐにわかりました。「あなたは、最初のときはなにも考えずに無心でトイレを掃除しましたね。『確かにこの頃はあまり熱心にトイレ掃除をしてこなかったな』と、反省しながら取り組みましたね。しかし今日は、『これをやったらお客が来るんだ、もっとお客に来てほしい』という自分の都合で、不純な思いでやったはずです」。彼女は、はっと声を上げました。「そうでした」。
ところで、イトーヨーカドーの創業社長だった伊藤雅俊さんが『商いの道』という本を書いていらっしゃいます。その中にこういう話が載っています。イトーヨーカドーの商売の原点は、昭和20年代の前半に、北千住で始めた5坪ほどの小さい店の頃にあると。
そのころ、伊藤さんのお母様がよく言っていたそうです「雅俊、お店ではいつも立って待っていなさい。いつお客様が来られてもいいように立って待っていなさい」、そして「お店の前は、ほこりが立って、お客様や隣近所のお店の方々に迷惑にならないように、いつも打ち水しておきなさい」と。
真のサービス精神
ここから、私たちはサービス精神の本質を学ぶことが出来ます。サービスとはお客様が来たときだけの問題ではなく、お客様が来られないときにもすでに始まっているということです。お客様が来る前の準備行動や心構えも、極めて大切だという訳です。いつお客様が来られてもいいように、つねに準備を怠らない。お店を気持ちよく整理整頓し、お客様の要望に対してすぐに対応できるように、商品やカタログを確認し準備しておく。現在のイトーヨーカドーの発展・繁栄は、このサービス精神の延長上にあるのでしょう。
じつは先ほどの喫茶店にお客様が突然やってきたのも、お客様のために空間を整理・整頓するという経営者のサービス精神の強い波動がお客様に伝わったとしか考えられません。追い込まれた必死のマインドと具体的な行動が強い波動を生み出したのです。ただし、それが不純なマインドにすり変わったとき、またもとに戻るという結果にもなったのです。
結局、どうすればお客様が気持ちよくこのお店に来ていただけるか、どうすればより高い満足感を持っていただけるか、つねにお客様の心理を読み取る努力をし、真剣に行動することです。そのためには、つねに自己都合を捨てて、お客様の心理を理解しようと努力しなければなりません。お客様の立場に立とうと努力し続けなければなりません。
努力して身につける
サービス精神の徹底で成長している外食企業に居酒屋「和民」があります。社長の渡邊美樹氏はその経営についていろいろと本を書いていますが、その中に次のような話が出てきます。あるとき、渡邊社長のところにお客様からクレームのメールが入りました。それは、次のような次第でした。
そのお客様が、たまたま山手線に乗ったら、わいわいがやがやとうるさい数人の乗客がいた。うるさいだけでなく、ほかの乗客の迷惑も顧みず携帯電話で話をしている人もいる。それとなく会話を聞いていると、「和民」の社員であることがわかった。どこかでパーティーがあってその帰りらしい。あまりの傍若無人に、どうしても一言社長に文句を言いたくてメールをしたと。渡邊社長の本を読むと、常にお客様の立場に立ってサービスをしなさいと書いてある。なのに、一歩会社を離れると、社員は全く迷惑な乗客であった。これは、社長の、他人の立場に立てという経営方針がうわべだけなのではないか、というクレームのメールだった。
そこで、渡邊社長は、すぐに社内を調べたところ、そういうことがあったと確認できたので、間髪を入れずそのお客様にお詫びのメールを入れ、同時にその社員とアルバイト店員を特定できたので、至急その社員を呼んで反省文を書かせた。
こういうことがあって、真にサービス精神を身につけることがいかに難しいか実感したと、渡邊社長は書いていました。
それからしばらくして、また別の日に、今度は「お宅の社員は素晴らしい」というお礼のメールがあったという。そのメールの送信者は、あるとき川崎の駅前で、突然雨が降り始めたので、軒先で雨宿りをしていたら、若い青年が寄ってきて「私は、もう傘はいりませんから、これを使ってください」と差し出してくれた。とても助かったので印象に残っていた。それから数日して、仕事帰りにたまたま仲間と川崎駅前の「和民」に入ったところ、あのとき傘を差し出してくれた人が、そのお店の店長だったのだ。メールの送信者は、「お宅の社員教育は徹底していて本当に素晴らしい」と感動の文章をつづっていた。
渡邊社長は、嬉しくてその社員を褒めようと思って呼んだところ、なんと、その青年はかつて山手線の中で迷惑電話をしていた社員と同じ人だったという。
相手の立場に立つ、ということを24時間どこでもできるということがいかほど難しいかを実感したと、渡邊美樹社長は書いていました。
「相手の立場に立つ」というサービス精神を自分のものにするには、不断の努力が要ります。一朝一夕で出来るものではありません。いつもいつのそうしようと心掛けていないとできないものです。真のサービス精神とは努力を要するものなのです。努力して身につけるものなのです。
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