閾値を超える

再就職の苦労とトイレ掃除  

 10年ほど前、まだ日本経済が不況からなかなか立ち直れなくて、あちこちで社員のリストラや給料カットが吹き荒れていたころです。定年退職をして、全くの畑違いの印刷会社に再就職した方と話をする機会がありました。すでに、その印刷会社に勤めて数年が過ぎていましたが、そのときに聞いた話です。  

 私は、定年と同時にこの印刷会社に再就職しました。印刷に関しては全くの素人だったのですが、たまたまこの会社が、シール印刷という特殊な印刷機械を導入したばかりというので、マニュアルを見ながら操作すればできるだろうと思って、その機械運転の現場を希望しました。幸いにして採用され、現場に配属されました。ただ、機械操作に関しては問題がなかったのですが、ひとつ誤算がありました。  

 というのも、この会社はアメリカのロサンジェルスに支店があって、その支店から外国人が3人、この新しい機械の技術を習得するために派遣されてきたのです。この3人の指導を任せられることになりました。アメリカ人、メキシコ人、ブラジル人の3人です。私は、英語も、スペイン語も、ポルトガル語もできませんから、身振り手振りで教えました。上司から、この3人はほっておくと怠けるので、教育も兼ねて、トイレ掃除をさせろと言って来ました。しかし、外人はトイレ掃除など自分の仕事ではなく、それは清掃会社の仕事だと、全くやろうとしません。仕方なく、私は、外人がやったように見せかけるために、毎朝7時半に会社に来て、1時間トイレ掃除をすることにしました。  

 最初の1ヶ月ぐらいは、イヤでイヤで仕方がありませんでした。でも毎朝1時間やり続けました。そのころは、「馬鹿だな、そんなことは、若いのに任せればいいのに」とか、「いい歳して、よくやるよ」とか、馬鹿にされることが多かったです。  

 ところが3ヶ月経ったころには、「根性あるんだな」という人が出てきました。  

 半年ほどたったころには、「お疲れさん」とか、「ご苦労さん」と声をかけてくれるようになり、周りの反応が変わってきたのです。さらに一年ほど経ったころ、社長が朝礼で「掃除とは、ただ汚れを落とすだけでなく、磨きこむことである」と言ってくれたのです。嬉しかったですね。社長は見ていたんだと。  

 さらに、はじめてから1年半ほど経ったころ、工場長が率先して「みんなで工場の磨きこみをやろう」といい出しました。この工場には、パンチパーマの若者で、遅刻の常習犯がいたのですが、この若者が「ご苦労さん」といってくれるようになり、遅刻もしなくなったのです。機械もピカピカになってきました。  

 2年ほどやり続けたら、不思議とみんなが話しかけてくれるようになりました。自分でも穏やかになったと思います。いやな上司とも仲良くなれ、一杯飲みに行こうと誘ってくれるようになりました。印刷業界は全体的に不景気なのに、うちの会社はすごく景気がいいのです。  

 はじめは、イヤイヤやっていましたが、そのうちに淡々とできるようになりました。そして、2年ほど経ったころには、自分の中で何かが変化したのです。他人のことが気にならなくなったというのでしょうか、自分が穏やかになったというのでしょうか。自分の中で、不思議な自信と安らぎが出てきたのです。 

環境整備で売上げ4倍増  

 掃除ということに関しては、経営コンサルタントの一倉定氏が有名です。中小企業の社長ばかり数千人を顧客に、獅子奮迅の活躍をした名コンサルタントでしたが、残念ながら数年前に亡くなられました。その一倉氏の環境整備(掃除)に関する熱の入れ方は尋常ではありませんでした。その著書から一部引用します。(「新・社長の姿勢」一倉定 経営合理化協会)  

 レストランのA社に私が初めてお伺いしたのは、10年以上前のことだった。当時のA社は、業績は下降の一途で、大幅な赤字に泣いていた。付近にいくつもレストランができたからだという。  

 私は「何が競争相手のせいだ。自分でやることもやらずに、売上げが減ったもないものだ。性根を入れかえて環境整備をやれ、こんな汚い店をお客様が嫌がるのは当たり前だ。それをやらずに、店の宣伝に頼るとは怠け者のやることだ」と決めつけたのである。  

 この日からA社長は心を入れかえて環境整備に力を入れだした。それからは3ヶ月に一回くらいA社に行き、店ごとの採点と注意を行なった。2回目の時には売上げは少し上がっていた。  

 3回目のときである。店ごとの私の採点をグラフに記入した社長は「アッ」とばかり驚いた。私の採点の上がり具合と、店ごとの売上げが見事に一致していたからである。採点の上がった店は売上げ増が大きく、採点のあまり上がらない店の売上げはわずかしか上がっていなかったからである。  

 これによって、A社長は、自分は何をすればいいかをはっきり自覚したのである。このころになると、社長をはじめ社員一人一人の心構えがかなり違ってきていた。社員の一人一人が、環境整備だけでなく、「どうしたらお客様にもっとサービスをよくすることができるか」を考えるようになったのである。  

 A社全体に「心の革命」が起きたのである。  それから10年間、A社の売上げは文字通り、ただの一ヶ月の低下もなくなく上がり続けた。客席回転数は、全店(8店舗)で通常6回転である。A社長は「6回転なんかできないはずなのに」と首をかしげるのであった。  

 一倉氏は、この書籍の中で「この不思議な現象は、単なる偶然とはどうしても思えないのである。整備された建物が、清浄で強力な精気(オーラ)を発し、これがお客様にも届いているとしか考えられない」と言っている。 

シュリハンドク  

 ところで、インドのお釈迦様の時代、弟子にシュリハンドクという人がいました。この人は、物覚えが悪くて、お釈迦様の説法を聞いたそばから忘れていくので、仲間からも馬鹿にされていました。同じ釈迦教団にいた兄はとても頭がよく、物覚えも良かったのに、弟は全く修行にならないのです。このままでは教団に迷惑をかけるからと、兄は弟に還俗を勧めました。さすがに、シュリハンドクは落ち込んで、悲しんでしまいました。そこを、たまたま通りかかったお釈迦様が見て、「シュリハンドクよ、良いことを教えてあげよう。これから、毎日、箒で庭を掃除しなさい。『塵を払わん、垢を除かん。塵を払わん、垢を除かん』といってやり続けなさい」と教えたのです。  

 シュリハンドクは、毎日毎日やり続けました。そしてあるとき、シュリハンドクはハッと気づいたのです。「ああ、これは人間の心も同じだ。常に掃除をしないと汚れていくんだ」と。その後シュリハンドクは教団の中で「阿羅漢」という悟りに達したと仏典に遺っています。

 閾値を超える  

 「閾値(いきち)を超える」という言葉があります。臨界点を超えるという意味に近いものですが、要はコツコツとやり続けると、どこかで質的変化を起こすというものです。「蓄積の効果あるいはキューミュラティブ効果」という場合もありますし、「一線を超える」という場合もあります。  先に紹介した定年退職のサラリーマンの方の体験も、また一倉氏の例やシュリハンドクの話も、どこかで質的変化を起こしたのです。だから、自分を変え、周りを変え、会社を変えていったのです。努力の量が質に転化したということでしょう。  

 この閾値を超えるということは、掃除だけに起こることではありません。学問でも、仕事でも、芸術やスポーツでもあらゆる分野で起こります。 

世界の松下電器  

 松下電器の創業者の松下幸之助氏もまた、掃除の大切さを説いた人です。松下政経塾でもしばしばそういう話をしたことが、政経塾の講義録にも残っていますが、その松下氏が経営ということに関して、閾値を超えた瞬間がありました。昭和の7年、世の中全体が不況で労働争議も頻発し、経営者の誰もが苦労していたころ、ある人からある宗教の教団本部に誘われたことがありました。そこで見たものは宗教的エネルギーの素晴らしさです。数多くの信者が嬉々として奉仕活動を行い、本殿が隆々と建っていく様を見て、この宗教も経営という観点で見れば素晴らしい発展だ。しかし、自分のやっている企業経営と何が違うのだろうと思い巡らしたのです。  

 そのことが頭から離れなくなり、一人帰路についた途中でも、そして家に帰ってからも、真の経営とはいかにあるべきか考えに考えに考えて、考え抜いたのです。寝床に着いたあとも目が覚めてまた考え続けたのでした。そして稲妻のごとく目覚める瞬間がありました。  

 「某宗教は人びとの心を救い、安心を与えるのが使命だ。しかし、電気製品を提供するという自分のやっている事業もまた宗教以上に聖なる尊い事業だ。社会から貧困をなくすという聖なる使命を持った事業だ。自分の経営こそ某宗教以上に発展せねばならない。それにもかかわらず閉鎖縮小とは何事だ。それは経営が悪いからだ。自己にとらわれた経営。正義にはずれた経営。聖なる事業をやっているという使命感に目覚めない経営。自分はこの殻から脱却しなければならない」「そして、水道水のごとく、誰もが安価で手に入る電気製品を大量に供給しなければならない。これが私の使命だ」(『私の行き方 考え方』松下幸之助 PHP文庫) 

 有名な「水道哲学」誕生の瞬間です。経営の神様・松下幸之助氏誕生の瞬間です。その後、松下電器は日本の一流企業になったのみならず、世界企業へと発展していったのです。松下氏が、経営とはいかにあるべきか考え、考え、考え抜いて、閾値を超えた瞬間からそれは起こったのです。 

これからのまちづくり 

 今の時代、企業は自分の会社の物質的利益だけを考えればよいとうことではすまなくなってきています。地球環境のことも考えなければなりませんし、地域社会への貢献も考えなければなりません。極論すれば、企業はいかにあるべきか、状況の変化に合わせて考え方を変えていかなければならない時代です。 

 同じようにまちづくりも、ただ道路をつくればいい、建物をつくればいいという時代ではなくなりました。持続的な良いまちをつくるには、単なるハコとしての建物だけを考えるだけではすまない時代になりました。どういうコミュニティを作らなければならないのか、人々の連帯感をどう作り出せばいいのか、ということを真剣に考えなければならない時代を迎えています。高齢者対策、治安対策、災害対策等を考えるなら、ますますそういうことは必要になってきます。ということは、当然地域に住む人たちの意識や考え方も変えていかなければなりません。それが健全な地域社会をつくる鍵となります。 

 かつて、ある地域の再開発事業で、その再開発に批判的な地権者の方と話したことがあります。彼は言いました。 

 「このまちの再開発は必要だと思います。しかし、参加しないのを陰で悪者のように言われるのは納得できません。じゃー、その推進している人たちは、きれいな建物ができたら即、理想的なまちができると思っているのだろうか。今までのようなコミュニティが持続すると思っているのだろうか。そんな単純なものではないでしょう。新しく入ってくる住民のほうが圧倒的に多くなるのですから、いままでのような地域社会を実現しようと思ったら、相当な熱意が必要だと思います。なのに、いま推進している人たちからそういう熱意を感じないんです。だから、私は参加しない。 もし本当に理想的なまちづくりをしたいのなら、いまからでも、地域の掃除をするとか、道路わきにお花を植えるとか、壊れた自分の家の塀を直すとか、いろいろやることがあるはず。あるいは、一人ひとりが自分たちの夢を語っていくはず。その延長上に新しいまちづくりが始まるのではないでしょうか。いまからそういうエネルギーを出していかなければならないのに、彼らはそういう行動さえしていない。だから私は彼らを信用できない」 

 彼が言いたかったのは、「推進派の人たちは、コンサルタントやディベロッパーに依存して、形ばっかり追っている。本当に必要なのは良いまちをつくろうという理想と行動ではないのか。コンサルタントやディベロッパーに任せておくのではなく、自分たちで主体的に考え、主体的に行動するべきだ。地域の人たちに対して自分たちの言葉で理想を語るべきだ」ということだったように思います。 「もし、自分のところに来て、正々堂々とその理想を熱く語ってくれたなら、私も賛成したのに」ということでした。 

 その地域の再開発はその後、中断し、そして冷めて行ってしまいました。結局、中心となる人たちが、考え方において、行動において質的変化を起こせなかったのです。誰も熱く語れなかったし、誰も閾値を超えることができなかったのです。 

 以上


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