まちづくり、人づくり(その2、自己責任の原則)

 前回は、再開発に反対しているそば屋さんの心の奥に屈折した心のトラウマがあったという話と、転職を繰り返す青年にも少年時代に刷り込まれた心の傷が影響しているという話をしました。その話の続きです。 

心次第で見方は変わる  

 前回の話で、何を言いたかったのかといいますと、心のあり方次第で、他人を見る目は変わるということです。たとえば、サラリーマンの世界でも会社で仕事がうまくいかないとか、人間関係がうまくいかないということがしばしばあります。そういう時、「私はこんなに頑張っているのに、あの上司は、評価してくれない」とか、「あの上司はいつも無理な仕事ばかり私に押しつける」というように、つい私たちは仕事がうまくいかないその原因を相手に求めようとします。  

 果たしてそれは正しいのかということです。そういうときは、一歩踏みとどまって、そういうふうにしか見えない自分は、果たして正しいものの見方をしているのかと、考えて見る必要があります。もしかしたら問題は相手にあるのではなくて、自分にあるのではないかと考えてほしいのです。  

 仏教の言葉で「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。一つの水は四つに見えると書きます。どういうことかと言いますと、水というのは川のことなのですが、あの世の世界では同じ川なのに、見る人によって全部違いますよということを言っているのです。魚がその川を見ると自分の住処に見える。普通の人が見ると普通の川に見える。ところが、地獄の亡者が見ると、その川は血の池地獄に見える。あるいは熱い炎のような火の川に見える。ところが、天国に住んでいる菩薩とか天使が見るとその川は水晶の川やダイヤモンドのキラキラ輝いた川に見える。ということなのです。これを「一水四見」というのです。要するに、同じ川なのですが、見る人によってその川の見え方は全部違うのですよという考え方です。仏教の唯識派という派があるのですが、そこでこういう教えを説いています。  

 じつは、これは仏教ではあの世の話をしているのですが、前述の青年もその類なのです。父親が憎いという心で周りを見ると。欠点が目に付くのです。つまり彼は、子供のころ彼の父親をどう見ていたかというと、理想の父親であって欲しいっていう思いがあった。ところが理想の父親であって欲しいのに、浮気をしてしまった。そこで彼は苦しんだのだと思います。本当は理想の父親であって欲しいのに、浮気をして、自分の理想の父親ではなくなってしまった。こういう父親じゃダメだ、そういう「心の傾向性」が出来てしまった。そういう心の目で他人を見た時に、つい欠点が目に付くのです。仕事しか能のない上司だ、怒りっぽい上司だ、話題が低俗な上司だ。本当は理想的な上司であってほしいんだけど、低俗な話題しかしないとか。あるいは、重箱の隅を突っつく上司だとか。  

 このように、先ほどのおそば屋さんの話といい、この転職青年の話といい、特に父親との関係というのは、地域社会では肩書きが上位の人との関係で現れ、会社では上司との関係に現れることが多いのです。もし、目上の人や上司との関係がうまくいかない人がいたら、父親との関係を振り返って見るといいでしょう。父親との関係が非常にうまく円滑にいっている人は、上司や権威に反発するということはあまりないものです。また女性で言えば、母親との関係がうまくいっていない人は、会社で上司にあたる女性とうまくいかないというのも結構多いように思います。いずれにしても、原因は自分の心の傾向性にあるのだということです。 

公憤と私憤  

 このことに関して思い出す方がいます。数年前、高齢者福祉関係のNPOで、ちょうど敬老の日に呼ばれて行って、話をしたことがあります。30分ほどだったのですが、シルバーの方が数十人集まっておられて、そこでシルバー向けに「和顔、愛語、慈眼」という話をしました。年をとったら「やわらかい笑顔と思いやりのある言葉と、そして優しい目が大事ですよ」と。そこで、話し終わって何か質問ありませんかと言ったら前に座っていた年輩の方が手を挙げまして、「じつは、自分は、若い時から非常に正義感が強くて、社会的な不正、とくに汚職とか収賄とか、そういう社会的不正があると、それがどうしても許せない、もう居ても立ってもいられない」と。そういう性格ですから、戦前に、その方は、後で聞いたら85歳って言ってましたから戦前はもう大人だったのですね、その戦前の20歳代のころ自分は、ちょっと、社会に対して批判的なことを言ったために、いわゆる特高(特別高等警察)という思想を取り締まる警察に捕まって、刑務所で殴る、蹴る、の虐待を受けて、片目を失明して今も左目見えないのです。それくらい世の中に不正があると許せなくて、ついカッとなる性格なのです。「最近は、それが高じて、妻にまで手が出てしまうのです、どうしたら良いでしょうか」という質問でした。  

 おそらく奥さんという方も、80歳近い相当年輩の方だと思うのですけが、その奥さんについ手が出て暴力を振るってしまう、どうしたらいいでしょうかという質問をされたのです。その時に私がお答えしたのが、「あなたは社会的不正を許せないと言っているけれども、じつは心の中に、私的な憤りがあるんじゃないんですか。同じ怒りでも、公憤というのと私憤というのがあるのです」という話をしました。公憤というのは公の憤りです。私憤というのは私的な憤り。あるいは公憤とは理性的な憤りであり、私憤とは感情の入った個人的な憤りと言ってもいいでしょう。  

 そこで「あなたは正義だといって、社会の不正を糾さなきゃいけないと言っているけれども、じつは心の奥底に、私的な不満なり憤りが溜まっているんじゃないですか」といって、先ほどの、4回も転職した若い青年のことを話したのです。いつも上司とぶつかっていたという人が、じつは父親に対して憎しみを持っていたことに気がついて、それを解決したら自分の上司との問題も解決したというケースがあるのですという話を、その方にしてあげたのです。そうしたら、その話を聞き終わった途端にその方が、大きな声で「わかりました!」と叫んだのです。「じつは、私も父親を殺したいほど憎んできました。父親を殺したいと思ってきました」。それで、大学を出たらともかく父親から離れたくて自分でアメリカへ行って留学した。それほど父親を憎んでいた。  

 「これまで、自分はそういう社会的不正に対する憤りを、正義だと思っていたけれど、自分の方に問題があると今気がつきました」ということを、みんなの前で大きな声で話してくれました。85歳の男性だったのですが、この方も自分の心の傾向性というものに遅まきながら気がついたのです。つまり、社会的不正を糾さなきゃいけないという思いがあったのだけれども、じつは心の中では父親を殺したいというほど憎んでいた。そういう心の傾向性で見ると、世の中が全部偏って見えるということです。 会社の問題、家庭の問題、あるいは地域における人間関係の問題などいろいろありますが、もしかしたら自分の心の傾向性に原因があるのではないか、と振り返って見れば案外解決の糸口が発見できるのではないかと思います。 

責任転嫁ではものごとは解決しない  

 今取り上げた「原因は自分にあり」という事例は別に特殊なケースではなくて、ビジネスでも、家庭でも、どこでもありうる話なのです。  

 じつはあの有名な、松下電器を創業された松下幸之助さんも、「決断の経営」(松下幸之助著、PHP文庫)という本のなかで、そのようなことを書いています。この中で、松下さんは「事のならざるは自分にあり」ということを書いています。  

 「熱海会談での感動」という、これは松下電器の歴史においては非常に有名な話なのですが、ちょうど昭和39年の不況の時、家電メーカーも不況になってテレビやら冷蔵庫やら売れなくなった。それで、これは大変だということで松下電器も全国の販売店や代理店の社長さんを熱海に集めて、実態をもう少し聞こうということで、懇談会をもったのです。全国から300社近くの社長さんが集まって、1泊2日の懇談に入った。それでみんなの実態を聞こうと思ったら、出るわ、出るわ、松下電器に対する愚痴とか、不満とか、批判ばっかりだったのです。  

 松下電器の指導が悪いからずっと赤字が続いている。あるいは親の代から松下電器の製品を売っているのにちっとも儲からない、赤字続きだって。そういう批判的な言葉ばかりが出た。松下幸之助さんは、そんなことはないでしょう。それはあなた方の経営が悪いからだ。松下電器が悪いんじゃない、あなた方の経営が悪いからだということで反論した。1日目はそういうやり取りで終わった。2日目になった。2日目になっても相変わらず不満や愚痴が出る。どうしてくれるのだ。今まで松下電器のために一生懸命やってきたのに、ちっとも黒字にならなくて赤字ばかりだ。どうしてくれるのだという責め口調ばかりきた。   

 そこで、松下幸之助さんしばらく考えた、どうしてだろうと。ずーと考えてきたら、沸々とこみ上げてくるものがあった。そう言われてみればそうだなということを感じたらしいのです。その辺のいきさつがここに書かれてあります。  

 私はこれまでいろいろと不平不満をぶつけられたことを振り返ってみた。それらの不平不満は一面、代理店、販売会社自身の経営に対する甘さから出てきたものと見ることもできる。だからそういう指摘もした。けれども静かに考えてみると、松下電器自身にも改めなくてはならない問題点がたくさんあるのではないか。それらの不平不満が出てくるというのはやはり、松下電器自身の販売の考え方、やり方に弱い物があるのではないか。そうしてみると、責任は松下電器にある。いや、その責任の大半が松下電器にあるのではなかろうか。私はそういう事をしみじみと感じた。反省しなければならないのは、松下電器自身である。販売会社、代理店さんからの信頼を受けているうちに、知らず知らず慢心の心が出てきたのではないか。それが今日の姿を生み出した原因の全てではないのか。  

 事のならざるは自分にあらずして他人にあるのだ。というような考え方を一部持っているものがあるとするならば、それは大変間違いである。私どもはついつい、代理店さんがもっとしっかりして下さったならばと思うこともあるが、これも大変な間違いであった。やはりその原因は私ども自身にあることを考えなくてはならないのだ。  

 つまり、松下幸之助さんはそのときに、松下電器を創業して松下の電球を売り始めた頃の苦労を思い出したというのです。「一流の電球を作っていますから、一流のメーカーと同じ値段で売って下さい。値下げはしないで売って下さい」と言った時に、卸問屋から「そんなことはできない」と言われた。まだまだ新興の会社なのに、価格通り売って下さいなんてとんでもないと言われたけども、松下電器を育てるつもりで頑張って下さいということでお願いしてまわった結果、今日の繁栄が築かれたのだということを思い出した。  

 そしてその当時の販売店、あるいは代理店のご苦労のことを思い立った時に、松下さんはつい涙が出てきて、みんなの前で「申し訳なかった」と反省した。そして、300人近い販売店、代理店の社長の前で涙を流してハンカチで拭いながら謝ったそうです。そうしたらそれが伝わったらしくて、ある代理店の社長さんが、「いや、そうは言っても自分たちにも経営の甘さがあった。松下電器ばかりを責めていちゃダメなんだ。自分たちにも問題があった」。と、相手の方も反省をしはじめた。そして最後は涙々となり、お互いこれから松下電器のために全員一丸となって頑張っていこう。ということで熱海会談は感動のうちに終わった。そしてそのあと、この不況を何とか乗り切って、松下電器はその後の発展の礎をさらに築いていくことができた。そういうようなことが、この本に書いてあります。 

自己責任を腑に落とす  

 このように、景気が悪くなったり、会社の販売が思うようにいかなくなった時は、だいたい他人を責めます。相手を責めるのです。相手が悪いと。特に社内で会議をしてもそのようなことが起こります。なぜ売れないか?販売部の人は製品の設計が悪いという。設計している人から見ると、営業が良くないという。お互いに相手を責める。そういうところは、だいたい責任転嫁なのです。自分の問題じゃなくて、相手が悪いから会社の景気悪いのだと言い、お互いに責め合っている。そういう会議は何回やっても良い結果生まないのです。なぜか。松下幸之助さんの話と同じで、販売店が悪い、松下電器が悪い、とお互いに相手を責めているうちは真の解答が出ないのです。そうではない、自分の方が悪かった申し訳なかったと反省するところから、相手も申し訳なかったと言って、お互いに信頼関係がそこで築かれる。だから、自分の問題としてとらえた方が物事は解決が早い。自分の問題としてとらえて反省するところから、さらなる発展繁栄がはじまるのです。  

 ただし、大切なのは、こういう自己責任の話を単に知識として吸収するということでなく、いかに腑に落とすかということです。これはただ頭で理解すればいいというものではありません。今、この話を読んで「なるほど、自分の問題としてとらえればいいのか」と頭で考えるだけだったら、その程度です。問題は、頭で考えることではありません。こういうことは「そうか!!そうだったのか!!」と、いかに腑に落とすかということが大切なのです。腑に落とさないかぎり、それは自分の周りの変化として現れて来ません。本当に府に落とすと、実際の行動につながりますから、周りに変化が出ます。松下さんが、「この不況は自分の経営上の誤り、慢心が原因だった」と腑に落として謝ったら、販売店の社長もかえって反省したというように。  

 会社の人間関係も、地域の人間関係も基本は同じでしょう。どんなに納得のいかない不愉快なことがあったとしても、自分の問題として捉えれば、そこから新たな道が開けていくということです。 


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